倉田わたるの「2001年宇宙の旅」の真相

 「2001年宇宙の旅」の真相を解明したので、発表する。この映画を観ていない人にはスポイラーとなるので、これを読むことを禁止する。

この偉大な映画は、その謎めいた構成で知られているが、幾十通りもの読み取り方がある、という言い方は多分に誇張で、大体次の様な解釈に落ち着くのではないだろうか。これはクラークによるノベライズ版とほぼ一致しているが、それを読むまでもないと思われる。


 地球上にホモ・サピエンスが出現する以前の太陽系に、「神と見紛うばかりの超知性と超科学力を持った超人類(又は超文明)」(以後便宜上『』付きで、『神』と呼ぶことにする。所謂宗教的な意味での神ではない)が訪れ、3種類のモノリスを設置した。第1のモノリスは、これに触れた類人猿に知恵を与えるために、地球上に設置された。第2のモノリスは、目立つ為に強力な磁気を帯び、太陽光線に触れると木星に信号を飛ばす様セットされた上で、月面に埋められた。月には大気も生命も無いので、これが太陽光線に触れるということは、即ち母星である地球から誰かがやってきて、発掘したということである。即ち、第1のモノリスの使命が終わり、宇宙空間を越えられる程に、類人猿が進化したということを示すスイッチになる。そして、そこまで進化した生物ならば、必ずや信号の後を追って木星に来るはずである。そこで、第3のモノリスが木星の衛星軌道上に仕掛けられた。月面のモノリスを掘り出したばかりの類人猿の子孫は、まだ宇宙にのりだしてからまもないと見て間違いなく、その時点で木星に派遣された類人猿の子孫は、その種族中、特に優れた個体と看做してよい。『神』が採取するサンプルとして適切である。そして採取を行うのが、第3のモノリスである。『神』は「彼」を採取し、光の洪水(として類人猿の子孫には知覚されたもの)の中でブラシュアップして生命の垢を削ぎ落し、スターチャイルド(胎児)として、高次の次元に引き上げた。このたったひとつの「花」を摘むために、ただそれだけのために、人類とその文明が作られたのである。そして用済みとなった地球は、「彼」に玩具として与えられる..

 この他に、心理学的あるいは隠秘学的解釈なども、おそらくはあろうかと思うが、それらの方面には暗いので省略させて頂く。

 さて、あなたは妙に思わないだろうか? この映画の中核をなしているHALと人間との戦いは、このストーリー上、なんの意味があるのか? クラークの小説中では、それは乗員たちに旅の目的を隠し、嘘をつかなければならなかったHALが、それ故に狂ってしまった、という形で説明されているが、不自然だとは思わないか? どう考えても、とってつけた様なサイドストーリーではないか。有り体に言って、(雄大な規模のメインストーリーに対して)不要な枝葉ではないか。大体、映画を観て、クラークの言う「嘘をつかねばならず云々」が読み取れるか? こじつけではないか?

 私は、遂に真相を解明した。HALは殺されたのである。恐るべき殺人事件の下手人として利用された挙げ句。


 「人類の夜明け」の章で、モノリスに知恵を与えられた類人猿は、骨を手にして、まず手近の骨を砕き、次に獣を、そして対立するグループの首領を殺す。冒頭から、死と殺人のテーマが流れていることに注目したい。これは重要な伏線である。

 人類は宇宙に進出し、月面上でモノリスを発見し、木星探査船「ディスカバリー」を建造し、派遣した。全て『神』のプラン通りである。しかし、ここで思いがけぬ事が起ったのである。

 デイヴ・ボウマン船長が、副船長フランク・プールに殺意を抱いた理由は判らないし、知る必要もない。過去も背景も一切説明されずに登場してきた彼らである。動機などは百万通りも考えられるであろう。以下に、深宇宙を飛ぶロケットという、閉じた舞台で演じられた完全犯罪の全貌を、解き明かしてみせよう。



 飛行中に起る最初の事件が、通信用のAE−35ユニットの、「故障」である。これが故障している(72時間後に壊れる)とHALが報告したにも関らず、それは故障していなかった。これが、HAL自身の「故障」を示す最初の兆候であるとされている。

 これが実は擬装なのであった。クラークの小説、並びに様々な解説書の類では、嘘をつかざるを得ないストレスから、壊れてもいない部品が壊れている、と報告したとされているが、これは不自然すぎる。映画を観れば判ることであるが、この時点では、HALは(仮にそういう繊細な神経を持っていたとしても、まだ)余裕しゃくしゃくである。つまり、AE−35は、本当に「壊れていた」のである!

 このことに気がつけば、後はすらすらと解ける。この時、AE−35を交換しに行ったのは、ボウマンである。彼は(勿論)良品のAE−35を携えて行ったのだが、これと交換する振りをして、そのまま持ち帰ったのである。(個々のパーツにユニークなIDが刻まれているか否かは、映画では一切記述されていないので、解釈はこちらに委ねられている−つまり、IDは刻まれていなかったとする−訳だ。)この後、地上のHALのサブシステムは、AE−35は故障していない(即ち、ディスカバリーのHALが間違えた)と報告するが、地上システムはボウマンが持ち帰った良品を検査したと考えられる。これにより、HALを発狂までには追い込まずに、不安な状況(自分に自信が持てない)に置くことが出来る。そして、これを根拠として、プールにHALが狂い始めたと信じこませ、ふたりの間でそういう合意が取れたということをHALに見せつけたのである。即ち、通信回線を切断したポットの中での、ボウマンとプールの密談である。彼らの密談の内容(HALを切り離そう)は、HALに読唇術で知られてしまうのだが、HALにこういう能力があることを、ボウマンはあらかじめ知っていたと断ずる、有力な根拠が有る。それは、ボウマンには絵心があり、人口冬眠中の隊員達をしばしばスケッチしては、HALにそれを見せていたことである。その過程で、彼はHALの恐るべきパターン認識能力に、慄然としたに違いないのである。(「大分うまくなった」という、HALの評価!)実に巧妙な伏線である。

 さて、そこでHALによって「故障している」とされたAE−35(実は、故障していない交換パーツ)を元に戻すために、今度はプールが出向く。ボウマンの陰謀によって心理的に追い詰められたHALにとって、最後のチャンスである。なんの攻撃兵器も持たぬHALが、自己防衛のために2人の人間を始末するためには、彼らを分断し、個別に宇宙空間に放り出す他に手はない。

 船外でポッドがプールに襲いかかる! わざわざこんなことをしなくても、プールがポッドから出る前に、ポッドごと捨ててしまえば良いと思うかも知れないが、木星探査の使命に燃えるHALにとって、貴重な探査装置を捨てるに忍びなかったのであろう。それにしては、プールが宇宙空間に投げ出されたあと、当のポッドも、狂った様に飛んでいってしまうが、これはさすがのHALも、人を殺したという衝撃で、操作を誤ったと考えられる。

 プールは死んだ。ここからがボウマンの正念場である。目的は達したとはいえ、彼自身も殺されてしまったり、または地球に帰ってから(彼は当然、帰れるつもりであったはずだ)悪事が露見したりしては、何にもならない。彼らの行動は、地球からリアルタイムにモニターされてこそいないが、当然、全て記録されているはずなのだ。

 何よりも、プールを回収にいかなければならない。万が一助かる可能性もあるのだから、当然である。(ポッドに襲われた結果、宇宙服との通信も切断されたと考えられ、従って、生きているか死んでいるかのモニターも出来ないはずだ。)本音としては、勿論、飛び去るままにしておきたいのだが、それでは、地上センターに不審の念を抱かれる。(地上のスタッフは、ボウマンとプールの密談の件は知らないはずなので(HALにも聞こえないほどオフラインにされた)、HALがどれほど危険な状態なのか、判らないのだ。)しかし回収に行くのは、これ以上ない程、危険な行為である。ポッドに乗って出たとして、HALがポッドを捨てる決意をすればそれまでである。

 そこで、彼はHALを油断させる作戦に出た。即ち「ヘルメットを置いていった」のである。まさに悪魔の智慧である! ポッドに乗って、プールの死体を回収し、帰ってくる。HALは予想通り、ドアを開けない。しかし、それ以上のこともしない。する必要が無いのだ。ヘルメットを忘れていった以上、ボウマンは非常用エアロックから入ることも出来ない。プールを殺した際、動揺してポッドをひとつ失ってしまった点から見ても、HALとしては出来れば手を汚したくないことが判るし、ボウマンはそこまで読んでいた。また、既にひとつポッドを失っている以上、今ボウマンが乗っているポッドまで失ってしまうと、探査用ポッドが残りひとつになってしまう。HALとしては、このポッドは無事に回収したいはずだ。そこで、制御を奪って深宇宙に飛ばすこともせず、ボウマンにコントロールを渡したまま放置していたのである。何も出来ないボウマンは、数週間以内に死ぬはずで、それからゆっくり回収すれば良い。

 ところが、ボウマンはヘルメット無しで、非常用エアロックから入ることに成功した。(この映画全編中−人類の夜明けの章を除けば−唯一の活劇シーンと言えよう。)彼の勝利である。もはやHALには打つ手が無い。そしてボウマンは、ここまで危険な状態になっているのを明らかに出来た以上、正々堂々と、HALを殺すことが出来る。完全犯罪の成立である! HALを心理的にコントロールしてプールを殺させ、それを理由としてHALをも殺す。ボウマンの犯意はどこにも残らない。証拠は一切無い。私が真相を暴くまで、映画を観た人も、誰一人気付かなかったはずだ。



 しかし、ここで思わぬ破局が訪れたのである。ボウマンが、勝利の歓喜に酔いしれてHALにとどめをさした、まさにその時、あらかじめ録画されていたVTRが回りだしたのである。そのテープの中で、フロイト博士は、18ヶ月前に地球外にも知的生命体が存在する証拠(即ち、月面のモノリス)を発見し、それは木星に向けて強力な電波を発していた、と述べたのである。そう、この時、旅の目的地、木星圏に到着していたのだ。

 ボウマンがこの時、何を思ったかは判らない。また、木星軌道上で待ち受けていた第3のモノリス(即ち『神』)が、何を考えたかも判らない。『神』が果たして、地球から飛来してきた生命体を「超越」させ、採取する(あるいは、自分たちの次元に引き上げる)意志があったかどうかも..しかし結果は明らかである。『神』は、彼を地獄に落としたのだ!

 ボウマンは、流れる光線群の神秘的なシャワーの中、原始星雲の誕生、または崩壊、想像を絶する天体現象、宇宙種族の超文明の遺跡、未知の惑星や恒星の表面等などを引っ張り回される。これは地獄堕ちの過程に他ならない。そして行き着いた先が、全く生気の無い、影ひとつない、美しいロココ調の部屋だ。ここが地獄である。彼はこの部屋で急速に歳を取り、死ぬ間際に再びモノリスと出会い、胎児に帰る..

 生命を弄ぶ者、生命を蔑ろにする者に対する最も厳しい刑罰とはなんだろうか? それは、決して「死」ではない。「死」は救いでしかない。それは「不滅の生命」である。これを見事に描いた作品に、手塚治虫の名作揃いの大シリーズ「火の鳥」中でも、小規模ながら異様な迫力で一際異彩を放つ、「宇宙編」がある。

 「火の鳥 宇宙編」は、この映画の後半の展開と、舞台設定が酷似している。手塚作品の方が、遥かに複雑なストーリーではあるのだが、疾空するロケットの中での不可解な殺人事件、宇宙漂流、不思議な惑星への漂着、そこで明らかになった「永遠の刑罰」、というモチーフ群が、不気味なほど共通している。「2001年」の公開が1968年、「火の鳥 宇宙編」が描かれたのが1969年であるから、キューブリックがこの漫画に影響されたという可能性は、なさそうである。むしろ、手塚治虫による、この映画の換骨奪胎が、「火の鳥 宇宙編」なのではないだろうか? 彼は、この映画に秘められた、犯罪の香り、生と死のモチーフを、見事に読み取っていたのである。

 「火の鳥 宇宙編」に於いて、生命を蔑ろにするという許されざる罪を犯した牧村は、罰として「火の鳥」に永遠の命を与えられ、流刑星に閉じこめられる。同様に、生命を蔑ろにしたボウマンは、『神』に永遠の命(老衰で死ぬ瞬間に、胎児となって蘇る)を与えられ、ロココ調の監獄に閉じこめられたのだ。(『神』が、プール殺しとHAL殺しと、どちらをより重大視したかは、興味深い問題である。)



 これまでの考察により、この映画のミステリー、あるいは犯罪映画としての本質を、明らかに出来たと思う。単に、ボウマンによるプール殺しとHAL殺しが、完全犯罪として見事に描かれているというだけではない。それだけでは凡百の犯罪映画と、なんら変わるところはない。これは数百万年というタイムスケールのSFに完璧に組み込まれており、かつ、犯人が『神』によって罰せられる、という結末を持っている。人智を越えた力によって決着が与えられるが故に、ミステリとしては邪道である、と言う人がいるとすれば、あまりにミステリを知らなさ過ぎる、ミステリの懐はあなたが想像している以上に深いのだ、とお答えしよう。と同時に、これほど意外な「人智を越えた力」が登場するミステリは滅多にあるものではなく、その意味では、実にユニークな地歩を占めていると言えよう。

 そもそもの事件の発端である、数百万年前の第1のモノリスの出現が、人類最初の殺人事件を導出しており、そのモノリスが使命を果たした結果のディスカバリー号の内部でもまた、殺人事件が起こるのだ。実に雄大な規模の伏線である! さらに言えば、ボウマンを地獄に堕とした『神』(又は『神』の手先である、第3のモノリス)にとって、もはや地球は不要であり、この後地球を破壊した可能性が高い。(最終シーンはそれを暗示しているかも知れない。)すると、実にこの映画は、人類の「最初と最後の殺人事件」を描いたことになる!

 以上の考察から、HAL事件は、不要なサイドストーリーどころか、この映画全体のメインテーマであることが判る。HAL事件の収まりが悪いクラークのノベライズ版よりも、遥かに妥当な解釈であると主張したい。



 ここまで考察した私は、突然、恐るべき可能性に思い至った。つまり、これまでは、せっかく「超越」させてやろうとしていたボウマンが、同じ種族の別の個体を「殺す」のを目撃し、それは許しがたいことだからと、『神』が「人類にも理解できる倫理基準で」彼を罰したの「かも知れぬ」、と、考えてきた訳である。つまり、『神』と人類とは、ある種の価値観は共有出来ている「かも知れぬ」、と。

 しかし、かつて、この映画中、最も美しく戦慄的なシーン、即ち、類人猿が骨を投げあげ、それが宇宙船に変貌するシーン、人類の「道具」が骨から宇宙船にまで進歩したことを感動的に表現したシーン、一瞬にして数百万年をジャンプした偉大なシーンを指して、「なんと恐ろしい。このシーンは、人類の手にした道具(例えば宇宙船)の本質は、人殺しの道具(即ち骨)であることを示している」と述べた評論家がいたことを思い出した。これを聞いた当時は、なんとうがった見方であることよと嘲笑っていたのだが、実は彼こそ、この映画の本質を正しく捉えていたとすればどうだ。

 モノリスが現われる度に流れる音楽は、リゲティの「レクイエム」であり、これは「死」のモチーフに他ならない! この曲の不吉な響き−どうして気がつかなかったのだろう、これは明らかに呪詛だ!−を聴くとき、『神』が類人猿に与えたのは、「殺人」のための知恵ではなかったのか、と、改めて慄然とせざるを得ない。そう、『神』は、その「地獄」にサンプルを収集するために、人類とその文明を発生させたのである。

 つまり、ボウマンの「殺人行為」を罰するために地獄に落としたのではない。「どのみち、地獄に落とすつもりだったのだ!」ボウマンの「殺人行為」は、呪われた種族である人類の業、この様な(人類的倫理感からみれば「邪悪な」)『神』によって産み出された種族の業を、象徴しているのに過ぎないのである。

 スター・チャイルドは、最後に地球に帰ってきたのでは「ない」。あれは、スター・チャイルドの「夢」である。彼は帰りたくてたまらない故郷を、もの哀しい瞳で夢見ているのだ。(これが地獄の責め苦の最たるものであることは、言うまでもない。)背後に流れる音楽は、「超人」の誕生を暗示する「ツァラトゥストラはかく語りき」。背筋も凍る皮肉である。

 かくして、人類のチャンピオンであるデイヴ・ボウマンは、ロココ調の美しい監獄の中で、胎児から成長して身動きも出来ぬほど朽ち果てた老人へ、そして再び胎児へと、繰り返し繰り返し、虚しくその生命を浪費し続ける。永遠に。永遠に..